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会員からのメッセージ

「嗚呼、我が青春の宮ヶ瀬ダム」 第20期 林 健二 (鹿島建設)(2011/05/09)

   現在は佐賀県で国交省の嘉瀬川ダム本体建設工事に携わっております。
会長から面白い話を書けと指示されており、期待に応えられるか自信がありませんが、会社人生の中でもっとも長い日々約10年を捧げ、まともな社会人に育ててくれた神奈川県にある宮ケ瀬ダムについて書いてみたいと思います。
入社したのが昭和59年、「建設業冬の時代」と呼ばれた時期です。横浜支店設計課で待つこと3年半、既にバブルが始まっておりましたが、はじめて配属された現場が宮ケ瀬ダムです。当時の現場には川俣、五十里、川治ダムといった現場で百戦錬磨の技能員がおりました。「草食系男子」でとても土木屋(ダム屋などとんでもない)とは言えない私は、「野獣系技能員」Tさんと組まされ朝から晩まで現場を引きずりまわされておりました。当時の私の一日を描写すると・・・。
朝、ラジオ体操・朝礼後Tさんの現場4WD車の運転手として若い衆(作業員のこと)に声掛けながら現場巡視。発破の時は近くの「みはる食堂」へ退避しラーメンをすすりながら発破状況を確認。役所立会い検査をこなして無線でTさんに迎えに来てもらう。夜は食堂にTさんはじめ幹部が陣取っている隅で食事をしていると、「林!ビール買ってこい!」とTさんから小銭袋を渡され自販機で缶ビール数本を買い、一緒に飲む。その後事務所へ逃れてやっと内業をするが、「林!うどんが出来たから食いに来い!」とTさんから電話がかかる。「ハイ!」と元気良くうどんを食べに行き、後片付けをする。そして夜は更けてゆく。Tさんに怒られている夢を見ながら爆睡。
親にも怒られたことのない私がこの時期に一生分怒られた感じです。しかし、現場の怖さを熟知し、若い衆に厳しいが慕われていたTさんと一緒に仕事が出来たことで鍛えられ、一人前の土木屋(ダム屋)に近づくことが出来たと思います。最近は残念ながらこのような心優しい鬼軍曹キャラが絶滅したような気がします。
宮ケ瀬ダムはバブル期に首都圏で建設されたため、ダークダックス歌謡ショー、マラソン大会、マウンテンバイク選手権大会、そして今もやっているクリスマスツリー点灯等たくさんのイベントがありました。また、多くの方々が見学に来られ、まさに開かれた楽しいダム現場でした。写真は私も出場したマウンテンバイク会場となった及沢土捨場(現在はきれいに整備され市民の憩いの場になっております)、奥がダム湖です。
(だよりNO.45号:会員の輪より抜粋)

「思い出」 第21期 田野 慎一郎(青木あすなろ建設)(2011/05/09)

 時がたつのは早いもので、内勤になって8年が過ぎ、現場のことを非常に恋しく思う今日この頃です。
 私は、1962年3月に宮崎県西都市に建設中の一ツ瀬ダム(アーチ)建設現場の近くで生を受けた関係もあって、幼い頃からダムには非常に親近感がありました。青木建設(現青木あすなろ建設)入社後には、熊本県の竜門ダム(複合式)、佐賀県の狩立ダム・日ノ峯ダム(重力式で2ダム1貯水池の夫婦ダム)、宮崎県の揚水式発電所上部ダムの大瀬内ダム(アスファルトフェーシング)などの現場を経験することができました。ここでは、初めてのダム現場である竜門ダムでの思い出を書かせて頂きます。
 28歳の時、京都の宅地造成現場に勤務していました私に九州・熊本県の竜門ダム建設現場への転勤命令がでました。民間現場から建設省直轄のダム現場への転勤、不安が募る中で着任したのですが、その不安が見事に的中。見ること・聞くことわからないことばかりで、日々落ち込むことの連続でした(この時点では当現場に約8年も在籍するとは思ってもいませんでした)。そのような中で、厳しく、時には優しくご指導頂いたJV諸先輩のお陰で、年毎に落ち込む回数が減って参りました。また、諸先輩の方々には技術面だけでなく私生活(パチンコ、お酒の作法?)に至るまで懇切丁寧なご指導を頂きました。
 着任して2年後に結婚し、現場宿舎から新居に引越しすることになったのですが、その際、諸先輩方が当事者より早く新居に手伝いに来て頂いており、ガス屋さんや近所の方々に挨拶を済ませていて頂き大変感謝していた中、荷物の片づけが済まないまま宴会を始め翌日が大変だったことや、第一子誕生時にJVの仲間に名前を募集したところ、「だむ子ってどうですか?」と真面目な顔で言ったN君の顔、今でも忘れられない楽しい思い出です。
 ある時、地元の方から『獲りたての猪肉があるから食べに来てくれ』との打診が現場事務所にあり、回りまわって私と事務屋さんの2名が出席することになりました。その時、地元の方から『新鮮だから大丈夫、美味しいよ』と言われ躊躇しながら食べた結果、その後1週間もの間お腹がどうにもならなかった『猪の生肉』。初めての地元対応でした。
 平成3年には大型台風19号が九州を襲い、現場巡回のため左岸下流進入路から堤体に入った直後に進入路が土砂崩れで崩落し間一髪で助かった事や、鉄筋キャップのありがたさ、試験湛水開始前の堤内仮排水路呑口には近づいてはいけないこと等、貴重な経験の思い出は尽きません。
 当時JV諸先輩方から教わった『仕事から遊びまで全員で輪(和)を持って楽しむこと』は、20年経った今でも非常に大切であると感じております。
 公共事業予算の削減や『コンクリートから人へ』のキャッチフレーズ等、建設業界を取巻く環境は非常に厳しい状況ですが『明日に向かって前進!』(大瀬内ダムで習いました)の精神で頑張りたいと思います。
(だよりNO.46号:会員の輪より抜粋)

「ダムへの思い」 第21期 菊地 保旨(間組)(2010/08/21)

 この4月に支店勤務となり30年近い現場業務に一区切りをつけたところです。
 初めてダム建設に従事したのは山梨県の塩川ダムです。それまで、発電所や地下鉄、トンネルなどの現場を歩き希望してダム現場に赴任したそのときには、もう入社10年近くの時を過ごしておりました。塩川ダムでは原石山工区でしたので、本体工事の醍醐味を味わうまでには至りませんでしたが、ダム工事のスケールの大きさ、ダムに携わる人間の心意気などに触れ、その後20年の人生の方向付けをするに十分な動機づけとなったと思います。
 その後、東京電力の葛野川下部ダム、神流川下部ダムと揚水発電所のダムに従事いたしました。葛野川では8年の長きにわたりお世話になり、着工から竣工まで一通りの建設プロセスを経験するアとができ、神流川でさらに習熟することで、まがりなりにも「ダム屋」の末席に加わることができたものと感謝しています。
 この間、国内の経済情勢はバブルの崩壊を経て、縮小傾向にあり、ダム建設に対するアゲンストの風も吹き始めてまいりました。
 国内に活路を見いだせなくなった自分自身の思いもあり、当時マレーシアで受注したキンタダムへの赴任要請に、迷うことなく従うことにしました。初めての海外勤務で、プロジェクトマネージメントのいろはも知らぬ門外漢でありましたが、小田実の「何でも見てやろう」かぶれの世代でしたので、ポジティブに考え決断しました。キンタダムは約100万m3のRCCダムで、様々な問題を抱えながらも4年程で完成をみることができました。このRCCダムの技術が縁で、発電用500万m3のコンクリートダムでソンラダム建設というベトナムの国家的プロジェクトに、施工管理コンサルのエンジニアとして1年弱参画の機会を得ることになりました。
海外工事もまた、利益確保の難しさから、安易に継続することが困難となり、帰国後、東北地整の長井ダムにお世話になりました。長井ダムでは2年間、打設完了後から試験堪水までを担当し、今現在も竣工に向けて鋭意施工を進めているところであります。
 さて、改めて言うまでもなく、建設業ひいてはダム建設の将来像は明確ではありません。したがって将来を担うべき若い技術者は目標を定められずに苦悩せざるをえません。我々の世代は諸先輩から多くのものを伝承され経験を積むことで前に進むことができたわけですが、実践すべきフィールドが限られてきた昨今の国内では、出口に明かりを灯すことさえ儘ならない状況といえます。シビルエンジニアが社会基盤を豊かにするための技術者と定義されるならば、その必要性が失われることはあり得ないでしょう。この必要性の多寡は、グローバル化した地球の尺度で計らなければならず、技術者の資質もまた同様の洗礼にさらされるということだと思います。民間企業としてのリスクは大きいのですが、個々の技術者はやはり国際化を視野に入れた将来の絵姿を描くべきだと考えます。
 (だよりN0.45号:会員の輪より抜粋)

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